会津戦争のはじまり会津戦争のはじまり
1868年8月23日、新政府軍は会津若松城下への攻撃を開始します。藩主・松平容保は籠城を決断し、鶴ヶ城には藩士とその家族、あわせて約4,000〜5,000人が籠もったとされます。以後、開城まで約1か月にわたる籠城戦が続きました。
娘子隊——武器を取った女性たち娘子隊——武器を取った女性たち
籠城戦では、男性藩士だけでなく多くの女性も戦闘に加わりました。中でも知られるのが中野竹子率いる「娘子隊」です。竹子はなぎなたを得意とし、新政府軍との戦闘で銃撃を受けて命を落としますが、その最期の様子は今も語り継がれています。新島八重(後の同志社創設者・新島襄の妻)もスペンサー銃を手に籠城戦を戦った一人でした。
なぜ、一か月も持ちこたえられたのかなぜ、一か月も持ちこたえられたのか
鶴ヶ城が1か月にわたって持ちこたえた背景には、蒲生氏郷・加藤嘉明父子によって築かれた堅固な縄張りがありました。総構えには16の虎口が置かれ、郭内と郭外を明確に分ける防御思想は、築城から260年以上を経てなお、新政府軍の近代兵器による攻撃に耐える強度を保っていたのです。
戦術的に評価すべき点
会津戦争は「精神論の戦い」として語られがちですが、実際には籠城戦としての戦術的完成度は高く評価されています。新政府軍側も鶴ヶ城の堅固さには手を焼き、最終的には周辺地域を制圧して兵糧攻めに近い形に持ち込まざるを得ませんでした。
開城、そして開城、そして
1868年9月22日、会津藩はついに降伏し、鶴ヶ城は開城します。藩主・容保は死一等を減じられて助命されますが、藩士たちには過酷な運命が待っていました。多くが下北半島の不毛の地・斗南への移封を命じられ、そこからの苦難の再起の物語が始まります。