「ならぬことはならぬ」を体現した女性「ならぬことはならぬ」を体現した女性

山本八重(後の新島八重)は会津藩砲術師範の家に生まれ、幼少期から鉄砲の扱いに親しんで育ちました。会津戦争では最新式のスペンサー銃を手に鶴ヶ城に籠城し、男装して戦ったと伝えられています。その勇猛さから後年「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになりました。

戦後、京都へ戦後、京都へ

敗戦後の会津は”朝敵”の烙印を押され、多くの藩士・家族が困窮しました。八重もまた苦難の時期を経て、兄・山本覚馬を頼って京都へ移ります。そこで出会ったのが、後に同志社英学校(現・同志社大学)を創設する新島襄でした。八重は襄と結婚し、女子教育の推進や日本赤十字社の活動にも尽力し、日露戦争では篤志看護婦として従軍しています。

逆賊の娘たちの、その後逆賊の娘たちの、その後

八重だけでなく、会津の女性たちの多くが戦後、新しい時代の中で道を切り拓いていきました。会津藩士の娘であった大山捨松は、日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、後に陸軍卿・大山巌の妻として鹿鳴館外交の花形となります。かつて「朝敵」とされた家の娘たちが、明治という新時代の教育・外交の最前線に立っていったことは、会津の底力を示すもう一つの物語です。

玄人受けする視点

大山捨松の夫・大山巌は、皮肉にも会津戦争で新政府軍側の指揮官の一人でした。かつての「敵」の娘と結ばれたこの結婚は、当時の社会に少なからぬ衝撃を与えたと伝えられています。