600年前、この地は「黒川」だった600年前、この地は「黒川」だった
会津の中心地は、鎌倉時代から蘆名氏が治める「黒川」という名の町でした。1589年、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼしてこの地を手に入れますが、豊臣秀吉ににらまれ、わずか1年余りで会津を去ることになります。政宗に代わってこの地に入ったのが、秀吉配下随一の文武両道の武将、蒲生氏郷でした。
「若松」と改め、七重の黒い天守を築く「若松」と改め、七重の黒い天守を築く
氏郷は会津92万石という大領を与えられ、町の名を「黒川」から「若松」へと改めました。諸説ありますが、氏郷の出身地・近江日野にあった「若松の杜」にちなんだとも、蒲生家の隆盛を願ってのこととも言われます。同時に築いたのが、七重の天守を持つ壮麗な城でした。
実は氏郷が築いた天守は、現在私たちが見る白亜の姿ではありませんでした。豊臣政権の威光を示す「黒い城」——漆黒に金箔をあしらった、大坂城にも通じるデザインだったと考えられています。現在の白い姿になったのは、のちに城主となった加藤氏の改修以降のことです。
「鶴ヶ城」という名前の、意外な由来「鶴ヶ城」という名前の、意外な由来
「鶴ヶ城」と聞くと、多くの人が優美な白壁を鶴の姿に重ねて名付けられたと想像します。しかし史実は違います。「鶴」は蒲生家の家紋「対い鶴(むかいづる)」に由来するというのが定説です。白壁と鶴の連想は、後世に生まれた美しい誤解というわけです。
「白鶴が舞い降りた地に築城した」という伝承も一部で語られますが、史料的な裏付けはなく、蒲生家の家紋説のほうが有力です。美しい話ほど、史実と切り分けて楽しみたいところです。
町割りは、今も生きている町割りは、今も生きている
氏郷が定めた城下町の骨格——堀に囲まれた郭内(武家地)と、その外側に広がる郭外(町人地)という構造は、明治以降の開発を経てもなお会津若松の道筋に色濃く残っています。七日町通りや大町通りを歩くと、400年以上前の都市計画の上を、今も人々が生活していることを実感できます。