会津藩士の子、白虎隊の生き残り会津藩士の子、白虎隊の生き残り
山川健次郎は会津藩の家老格の家に生まれました。会津戦争当時は白虎隊士中二番隊に所属していたとも言われ、年齢的な理由で戦場を離れていたため、生き延びることができました。戦後、会津藩は”朝敵”として下北半島の不毛の地・斗南への移封を命じられ、健次郎少年もまた極貧の開拓生活を経験します。
長州人・奥平謙輔との出会い長州人・奥平謙輔との出会い
この苦境の中、健次郎に学問の道を開いたのが、長州出身の元藩士・奥平謙輔でした。奥平は敗軍の将である会津藩士の子を自邸に匿い、学問を授けます。かつて戦場で敵味方に分かれた両藩の間で結ばれた、このような個人的な師弟関係は、「長州=会津の敵」という単純な図式では語れない歴史の一面を示しています。
日本初の物理学博士、そして東京帝大総長へ日本初の物理学博士、そして東京帝大総長へ
健次郎は米国イェール大学に留学して物理学を修め、帰国後は日本人初の物理学教授、そして日本人初の理学博士(物理学)の一人となります。1888年には東京帝国大学総長に就任。”朝敵”とされた藩の出身者が、日本の最高学府の頂点に立つという、当時としては極めて異例の出来事でした。
地元では常識、観光ガイドでは省略されがちな話
健次郎はその後、九州帝国大学・京都帝国大学の総長も歴任し、生涯で3つの帝国大学のトップを務めるという、日本の教育史上でも類を見ない経歴を残しています。会津の”教育県”としての評判は、こうした人材の系譜の上に築かれました。