1988年、断られた姉妹都市提携1988年、断られた姉妹都市提携
戊辰戦争から120年を迎えた1988年、山口県萩市(旧長州藩の城下町)から会津若松市へ、姉妹都市提携の申し入れがありました。しかし会津若松市議会や市民の間からは「我々は戊辰戦争の恨みを忘れていない」「会津藩主の孫がまだ生きている」といった強い反対意見が上がり、この提携は実現しませんでした。地元では「萩市との握手一回で票が減る」とまで言われたと伝えられています。
民間交流は、静かに続いていた民間交流は、静かに続いていた
公式な提携こそ実現しませんでしたが、この一件をきっかけに、かえって民間レベルの交流は活発化していきました。萩市の医師・山本貞壽氏は「長州と会津の友好を考える会」代表として、50回以上会津を訪れ、地道な交流を重ねます。2011年の東日本大震災の際には、萩市から会津若松市へ多額の義援金が届けられました。
山本氏は生前、「私はこれまで謝罪とか和解とかは口に出していない」と語っています。声高に和解を掲げるのではなく、良かったところを見てもらう地道な交流を積み重ねる——このスタンスこそが、150年という長い時間をかけて少しずつ市民感情を動かしてきた原動力だったといえます。
2019年、萩市長が初めて公式訪問2019年、萩市長が初めて公式訪問
2019年11月、萩市長が会津若松市制120周年記念式典に出席しました。これは萩市長として初めての公式訪問です。震災支援への感謝の意も込め、会津若松市側がこれを表彰対象としたことも、長年の民間交流の積み重ねがもたらした変化を象徴する出来事でした。
長州もまた、時代に「はめられた」側という見方長州もまた、時代に「はめられた」側という見方
会津への厳しい処遇——”朝敵”の烙印、斗南への移封——は、長州の一存で決まったものではなく、薩長を中心とする新政府が自らの正統性を保つために必要とした政治判断でした。矢面に立たされたのが長州出身の将兵だったために、「長州=会津いじめの主犯」というイメージが定着しましたが、これは歴史の一面に過ぎません。
実際、奥平謙輔が山川健次郎を匿って学問を授けたように、個人レベルでの長州人と会津人の関係は、単純な敵対関係では語れないものでした。150年という時間の中で少しずつ進んできた和解の歩みは、そもそもの対立構造そのものが、当時の政治力学が作り出した「役割分担」だったことを、私たちに教えてくれます。
萩側から見た明治維新の物語については、姉妹サイト「萩ヒストリア」でも詳しく紹介しています。