出自を隠された、将軍の子出自を隠された、将軍の子
保科正之は二代将軍・徳川秀忠の子として生まれながら、正室の目を恐れた事情から、家臣・保科正光のもとで密かに育てられました。自らの出自を知ったのは成人してからとも言われ、将軍家との複雑な距離感が、彼の生涯を貫く「忠義」への強いこだわりを形作ったと考えられています。
会津23万石、そして家訓十五箇条会津23万石、そして家訓十五箇条
正之は山形を経て1643年、会津23万石の藩主となり、会津松平家の初代となります。彼が遺した「会津家訓十五箇条」は、その後230年近く会津藩の統治理念であり続けました。第一条は「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず」——将軍家への忠誠を、他藩の事情に左右されず貫けという、強烈な一文から始まります。
玄人受けする視点
この家訓第一条こそが、幕末に会津藩が朝廷・幕府のどちらにも「筋を曲げない」姿勢を貫き、結果として新政府軍と正面から戦うことになった遠因だと指摘する研究者は少なくありません。約220年前の一文が、明治維新の運命を左右したことになります。
名君としての素顔名君としての素顔
忠義一辺倒の堅苦しい人物と思われがちですが、正之は社会福祉の先駆者でもありました。90歳以上の高齢者に扶持米を支給する制度や、困窮者救済のための備蓄制度など、当時としては極めて先進的な社会保障策を会津で実施しています。江戸では玉川上水の整備にも関わり、明暦の大火の後には江戸の都市改造にも尽力しました。